戦後72年―「鐘の鳴る丘」と戦争孤児:はなめいと|岩手県花巻市のコミュニティ

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戦後72年―「鐘の鳴る丘」と戦争孤児



 広島と長崎への原爆投下、そして敗戦…。「鎮魂(ちんこん)」の8月、私はここに掲げた一枚の写真と向き合うのが習慣になっている。「焼き場に立つ少年」と名付けられた、この写真は長崎の上空に原子爆弾がさく裂した約1ヶ月後、米海兵隊の従軍カメラマン、ジョ−・オダネルが爆心地に近い浦上天主堂そばの河原で撮影した写真である。戦後、核廃絶の運動に身を投じたオダネルは10年前の8月9日、奇しくも原爆投下のその日に85歳の生涯を閉じた。妻で米国在住の坂井貴美子さん(56)は没後10年の今年の原爆忌に合わせ、故オダネルの生涯をたどる『神様のファインダ− 元米従軍カメラマンの遺産』を出版した。今日15日、日本は72回目の「8・15」を迎えた。

 写真を撮影した時の光景について、オダネルは著書『トランクの中の日本』の中にこう記している。「この少年は弟の亡骸(なきがら)を背負って仮の火葬場にやって来た。そして弟の小さな死体を背中から降ろし、火葬用の熱い灰の上に置いた。幼い肉体が火に溶けるジュ−という音がした。それからまばゆいほどの炎がさっと舞い上がった。少年は兵隊のように直立し、顎を引き締め決して下を見ようとはしなかった。ただ、ぎゅっと噛んだ下唇がその心情を物語っていた。下唇には血がにじんでいた」―。文章はこう結ばれている。「彼は急に回れ右をすると、背筋をぴんと張り、まっすぐ前を見て歩み去った」…。少年は一体、どこに向かったのであろうか。

 「緑の丘の麦畑/俺らが一人でいる時に/鐘が鳴ります キンコンカン/鳴る鳴る鐘は父母の/元気でいろよ言う声よ/口笛吹いて俺らは元気」(2番)…。少年の後ろ姿に「鐘の鳴る丘」の主題歌がオ−バ−ラップする。昭和22(1947)年7月から昭和25(1950)年12月まで、790回にわたって放送されたNHKのラジオドラマで、主人公は原爆や空襲、引き揚げなどで肉親を失った“戦争孤児”だった。作家の菊田一夫の原作で、主題歌の「とんがり帽子」(作詞:菊田、作曲:古関裕而)が鳴り出すと、7歳になったばかりの私はラジオにかじりついた。戦後、ソ連軍の捕虜となり、シベリアで戦病死した父親の記憶が私にはない。その”欠損感”が無意識のうちに自分自身をドラマに重ねたのかもしれない。

 「狩り込み、と呼ばれた行政による強制的な保護収容では、『1匹、2匹』と動物のように数えられました。当時10歳で浮浪児となり、上野駅で狩り込みに捕まった女性の証言を聞きました。30人ほどの子どもがトラックの荷台にのせられ、そのまま夜の山奥に『捨てられた』そうです」、「親戚の家や養子先で成長した子どもも、心を殺して生きなければなりませんでした。私は親戚から『野良犬』『出て行け』とののしられ、『親と一緒に死んでくれたら』との陰口も耳にしました。刃物が胸に刺さる思いでした。腐った魚の目、と気味悪がられました。心が死んでいたと思います」(8月10日付「朝日新聞」)―。「戦争孤児の会」代表の金田茉莉さん(82)は12万人を超えたと言われる孤児の実態について、こう語っている。

 「本日、第14収容所第4865病院にて、軍事捕虜マスコ・コンチが死亡」―。「極秘」と記されたソ連邦内務人民委員部軍事捕虜・抑留者業務管理総局作成の死亡証書(ロシア連邦国立軍事古文書館保有)にはこう書かれていた。亡き父「増子浩一」(ますこ こういち)の死亡通知が昨年夏、厚生労働省から送られてきた。日本語に部分翻訳された資料によると、「死亡年月日」は1945(昭和20)年12月30日で、「死因」は栄養失調症。埋葬地は「プリモスク地方」(沿海地方)の第4865特別軍病院「第1墓地」となっていた。極寒の炭鉱町だった。入院から死に至るまでの2週間の刻一刻を知りたいと思い、私はカルテの翻訳を専門家に頼んだ。

≪25日≫〜体温37・4〜39・0。全体的な容体は悪くない。頭痛を訴える。アスピリンを投与
≪26日≫〜体温37・1〜37・6。心臓、肺は特徴なし。便通は正常
≪27日≫〜体温36・9〜38・3。容体は悪くない。内臓は異常なし。睡眠、便通とも正常
≪28日≫〜体温38・5〜39・5。頭痛を訴える。脈拍は律動的である。心臓、肺は特徴なし。血液検査
≪29日≫〜体温39・7〜39・9
≪30日≫〜午前7時、心臓活動が衰退し、患者は死亡した。診断名「第慧抉浜楴債款鼻

 遺骨伝達式の日、骨箱を母が胸に抱き、私たち3人の遺児たちは無言で家路を急いだ。遺骨代わりの木片がカランコロンと乾いた音を立てていたことだけは幼心にも覚えている。死にゆくカルテの、淡々とした記述が逆に父親の実像を浮かび上がらせてくれたような気がした。戦後70年以上、心の中に空洞を形づくってきた戦争孤児としての欠損感がす〜っと、消えていくような、そんな不思議な感覚にとらわれた。私の「戦後」にやっと、終止符が打たれたのかもしれないと思った。「焼き場に立つ少年」はきっと、私と同じ年頃だったにちがいない。戦争孤児の蔑称でもある“浮浪児”はいまではとっくに死語になっている。しかし、幼子を背中に負う少年の姿は未完の戦後の「実像」として、いまも私のまなうら(眼裏)にはっきりと刻まれている。


(写真は故オダネルが撮影した「焼き場に立つ少年」=インタ−ネット上に公開の写真から)



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